2013年12月7日 野火止用水散策

まっぷす毎年恒例のまち歩きを、2013年12月7日(土)に行いました。桜の花の咲く時期、モミジの葉の色づく時期には必ずと言ってよいほどどこかしら出かけております。さらにメンバーからの提案やイベントに備えて、あるいはその時々のテーマに沿って、関連する場所や土地に足を運んでおります。その時々の発見があり出会いがあり、まち歩きが終わってからの飲み会があり、和気あいあい楽しいひと時を毎回過ごしております。

今回は前回の続き、野火止用水に沿ってのまち歩きです。清瀬駅から平林寺まで、googleマップのルート検索によるとおよそ6kmの行程を、半日かけて歩きました。まずは清瀬駅を出発。駅前にある激安で有名なオーケーストアの横を通り、商店街を抜けると、一転してまだ完成して間もないであろう計画道路と、それに面して建ち並ぶ住宅が目に入ります。雑木林のある幼稚園の前を通り、農家のお屋敷横を過ぎると、野火止用水に行き当たります。

東京都と埼玉県のちょうど境、片側1車線、往復合わせて2車線の道路の隣りに、野火止用水が流れています。用水の外側には歩道が設けられ、ちょっとしたお散歩に最適です。水路の両岸には膝くらいまでの高さに切り揃えられた、ツツジなど背の低い木が植えられています。両岸と水路を含めた野火止用水全体の幅はおよそ2m、両岸と水路の幅はそれぞれおよそ3分の1ずつです。直径およそ10cmの丸太杭で水路は護岸されており、水の量は結構多くありそうで深さは10~30cm位。大きな鯉をあちらこちらで見かけました。


野火止用水に並行して走る道路は「水道道路」との看板がありました。その名の通り、東京都東村山市にある東村山浄水場と埼玉県朝霞市にある朝霞浄水場を結ぶ水道管が、道路の下に埋設されているそうです。水道道路の看板の下には、野火止用水路に沿って散策する人のための案内看板が一緒に掲げられていました。
しばらく行くと、流れの急な場所、道路面と水面の差が著しい場所、水路と境界線が近く急傾斜の土留めが必要な場所などが現れ、そのようなところの護岸はコンクリート製となっていました。

野火止用水横の歩道脇にはところどころに、腰かけることのできる椅子や東屋、史跡であることを我々に伝えてくれる石碑や案内板、武蔵野の面影を残す馬頭観音などがあります。まれに汚れたままの案内板がありましたが、要所要所に設けられていましたので休憩したり、野火止用水をはじめとする土地についての知識を私たちに伝えてくれたりと、まち歩きの助けとなりました。


野火止用水本流と平林寺境内へ水を取り入れるための平林寺堀、さらにかつてはあったが今は跡を残すだけとなった陣屋堀とに分かれる地点があります。この野火止用水分岐点は通称西堀分岐点と呼ばれ、平林寺方面への分水口には、木製の水門が再現されています。分岐点を含むこの場所は、現在は野火止用水清流対策事業を記念する史跡公園となり、記念碑が立てられています。公園のほとんどは雑木林で覆われていますが、水路脇や低い部分はモミジやツツジが植えられています。かつての野火止用水の風景に公園的要素で手が加えられているといった印象です。公園の隣には畑が広がっていて、機械で作物を収穫していました。

しばらく行くと、サイフォンの原理を利用した工作物が連続して設けられている場所があります。
道沿いにある案内板によると、高低差の関係から土手を築いてその上に水路を開削する「築樋」と呼ばれる工事で行われたものであり、その後の水路工事・道路工事等により、落差を利用し道路下の通水管を通り抜けるサイフォン構造(伏せ越し)と呼ばれる現在のような姿になった、とのことです。


野火止用水から分かれた平林寺堀は、やがて関越自動車道にぶつかります。この関越自動車道は道路部分が通常の地面の位置より深く掘り下げられた掘割式となっており、用水はこの関越自動車道をまたぐ水路橋によって、遮られることなく流れて行きます。関越自動車道を越えると本日の目的地である平林寺までもうすぐです。のどかな田園風景が広がり、カエデのある雑木林を通り抜けて行きます。カエデには、ブーメランのような形をした種がいっぱい成っていました。

いよいよ平林寺に入ります。拝観料500円を払って総門をくぐり抜けます。金剛力士像を左右に配する山門、茅葺と火灯窓の仏殿、釈迦如来坐像を安置する本堂が一直線上に並ぶ禅宗様の伽藍配置の寺院です。境内をさらに奥に進みます。放生池を左手にさらに進みます。すると杉木立の中、赤や黄色のカエデが夕陽を浴びて輝いて見えました。訪れていたある人は立ち止まって見入り、ある人は写真に収めたりしていました。


野火止用水の支流である平林寺堀は平林寺境内を流れています。欄干が御影石の立派な橋が水路の上に架かっています。水路は土を掘り下げただけの素掘りです。橋の両側には約1mくらいの長さで丸太の杭が土留めとして打ってあり、昔のままの姿なのか、そこから先は土のままで護岸はされていません。平林寺やその下流域の飲料水や生活水としたとのことですが、見に行ったときはそれを賄うには水量は少ないように感じられました。平林寺のパンフレットによると、この平林寺堀は奥庭の林泉境内と放生池に注ぎ込んでいるとのことです。ここから先は拝観を許されていない林泉境内、用水の流れに沿って歩くのはここまでとなりますが、もう少し境内を回ってみることにしましょう。


平林寺は、埼玉県の岩槻にあったものを、野火止用水を開削した松平信綱の考えにより、現在の地に移されました。松平信綱は江戸幕府の老中首座にまで登り詰めた人物で、また川越藩主となりました。玉川上水の開削や川越の城下町の整備、明暦の大火後の江戸復興計画などインフラ整備を行い、徳川幕府を盤石なものとし、知略・策略に長けた政治家として歴史に名を残しております。平林寺境内には、松平信綱をはじめとする大河内松平家の墓が立ち並ぶ壮麗な廟所があります。大河内松平家廟所へ続く廟所参道は、杉林の中を両脇に石灯籠が並び、ジャノヒゲと竹垣で囲われた美しい空間です。

あたりがだいぶ暗くなってきました。もうそろそろ平林寺ともお別れです。平林寺を出発するちょうどその時、お寺の鐘が鳴りました。帰り際、平林寺の前にある店で柿を買い求めました。晩秋の夕方のバスを待つひと時のことです。バスに揺られひばりヶ丘駅に到着、居酒屋へ。うまい魚に舌鼓を打ち、赤霧島で乾杯。

・参考にしたWEBページ

「野火止用水・平林寺の文化的景観保存計画」
新座市のページです。野火止用水をはじめとする詳しい資料がご覧いただけます。
「平林寺」平林寺


・参考にしたパンフレット
「文化財散策ガイド2 野火止用水をあるく」新座市教育委員会
「”すぐそこにいざ”観光ガイドマップ」新座市
「平林寺」平林寺